Und morgen wird die Sonne wieder scheinen

9/29/2012

Rosbaud: Die Meistersinger von Nürnberg



『マイスタージンガー』はドイツの、ドイツ的な、非常にドイツ的な作品で、戦後でもMETでは、最後の行がカットされたり、ドイツの過去もあり戦後直ぐ他国ではなかなかに上演機会が困難な作品であった。勿論、この作品のもつ、解釈、特に昨今の脱ドイツ的な上演は、そのコンセプトはいいものの、それ程感銘を受けない。そして、非ドイツである、日本人が聞いても、この作品はかなり熱くさせる。(もっとも、小生この作品、Wagnerの作品の中でも一番苦手で、CDもそれなりに持っているのだが、殊更に好んで聞きたいとは思わない。

また、当方の好みも変わっていて、ドイツ的なものよりも、ラテン的な明るさのもつ(この作品は喜劇です!) 演奏解釈が好きで、特に、ヴァルヴィーゾやクリュイタンスのバイロイト実況がピンと来る。



それでも、最初にこのCDを見た時に、こりゃちょっと、という感がした。
何しろ、イタリアのオケをしかも、ドイツ人だが、非ドイツ的な、いや、あっさりドライ系のマニアックなロスバウトが振っているし、人選間違ってるんじゃないの、と思ったのだが。

しかしながら、歌手は、凄い。バイロイトで歌っていた歌手たちの、引越し公演の趣がある。しかも、ベックメッセーがErich Kunzが歌っているし、ポーグナーのLudwig Weberも堂に入ったものである。ザックスのOtto Edelmannはちょっと弱いが、それでも、OK。



で、注目のロスバウトも、期待通りの薄々、キチキチで宜しいし、チャルメラ・オーボエ、フカフカ・トランペット、モゴモゴ・ホルンのミラーノのRAI管も、「思った通り」ヘタウマで宜しい。

録音はアセテートからのもので、高音がキツイし、レンジが狭いし、なんだかなぁ、なのだが。。。

総合的には、それでも、異端であるようなないような不思議な感じで、楽しめた。

9/23/2012

プッチーニは甘い。感傷的過ぎる。私にとって。
それでも、Toscaだけは別(最後の終わり方が正直、?だが)。



ところで、ヴィーン宮廷劇場の監督だった、マーラーはこの作品にとってすこぶる批判的だ。Wikipediaによると(恐らく、アルマ・マーラーの『日記』からの抜粋だろう)、

「“第1幕の教皇が登場する場面では、教会の鐘が鳴りっぱなし。第2幕では男が拷問にかけられて恐ろしい悲鳴を上げ、別の男がナイフで刺し殺される。第3幕 ではローマ市の全景、凄まじい鐘の連打、ある中隊の兵士が銃殺される。…今更これを最大級の駄作だ等という必要はあるまい。”(1903年)」

確かに、鐘の音は喧しいのもさもありなん、だが、全体的に見て、決して駄作とはいえないし、小生にとって、かつては「プッチーニ唯一の」聞けるオペラであった。



さて、この戦中のドイツ語版によるものだが、甘さが無く、陳腐な表現をすれば、「ゲルマン的」で、どすこいな演奏である。他にも、R. クラウス、シューヒター、ステレオではシュタインのがある。
当方、非ドイツ・オペラのドイツ語歌唱は好きである。言語もそうだが、分かりやすいからだし、演奏がキッチリ、ハッキリしているからである。

因みに、実写版にはフローリア・トスカはミラ・ジョヴォヴィッチかファムケ・ヤンセンを、スカルピアにはクリストファー・リーをイメージします。

9/19/2012

MDからPCへ。

今宵第二弾。(請求番号はMD_049)

C.Davisの手兵だった、バイエルン放送響のライブで、しかも、彼の縁の地でもあるドレースデンでのライブ。



Sir Colin Davis、スタジオ録音だと、渋い、悪い言い方だと当たり障りのないものがおおいのだが、ライブだと勢い、かなり熱い。インバル同様唸りも大きい。
そういえば、この人の生、残念ながら未だ一度も聞いたことがない。かつてTVでみた、ドレースデンでのモーツァルトの『レクイエム』は灼熱だった(恐らく、ドレースデン爆撃追悼演奏会かなんかだった) 。

1.ブラームス、ピアノ協奏曲第一番
エリザベート・レオンスカヤ(ピアノ):豪快だが、粒のきめ細かいピアノ。気に入った。
2000-11-11、ドレースデン・ライブ




2.チャイコフスキー、『くるみ割り人形』組曲
1988-2、ミュンヒェン・ライブ

9/18/2012

MDからPCデータへ移行プロジェクト。

請求番号はMD_039で...

プロジェクト名、"As You Like It"は、嘘だが、今宵も引き続き。

恐らく、Wagner没後100年時(来年は生誕200年で、更に出費覚悟+クレンペラー没後40年更に更に出費覚悟)の フェスティヴァルかなにかの一貫であろう。シャイーのWagnerも珍しい。しかも、改定版ではなく、初版でやるところがミソ。



1.Wagner、交響曲ハ長調、初版。Brucknerはもちろんだが、初版って、(当たり前だが)プリミティブな響きがして、青っぽくてすこぶる良い。ようは纏まりに欠けているのだが、その分覇気を感じる。



2.Wagner、ヴェーゼンドンク歌曲集 Gabriele Schreckenbach(アルト)
以上、シャイー指揮、ベルリン・ドイツ響 1983-2、ベルリン・ライブ

3.Wagner、『トリスタンとイゾルデ』第一幕への前奏曲と愛の死(録音収録上最後がかけておる、名演だけに惜しい!)
ベルティーニ指揮、WDRケルン放送響(多分Altusで発売されているやつ)

追記:それにしても当時、MD買いたてで、録音方法やら知らないし、ノイズが酷いし、録音レヴェルも高すぎるし、でも、あぁ、なんか情熱もってたなぁ。
MDデータをPCデータへプロジェクト開始!

なんて、大げさなことをいっても意味は無いのだが、ようは320本ほどたまった栄光あるMDをPCへデータを以降。

各種、ホームページを見て、オーディオケーブルを7.99ユーロで買い、編集ソフトAudacity(日本語版あり)で作成。



光栄ある?第一弾は、
1.R.シュトラウス、『家庭交響曲』 Wolfgang Sawallisch指揮ベルリン・フィル(2001-6-17):これ実際にいました。
2.R.シュトラウス、ホルン協奏曲第一番 Wand指揮NDR、Ab Kosterホルン、ライブ
3.モーツァルト、『セレナータ・ノットゥルナ Wand指揮NDR ライブ 

時間があればおいおいやります。

9/17/2012

久しぶりの登場は、兎にも角にも余りにも音楽が体に染み渡ってしまったので、一筆書きたくなる欲求が生まれたから。その名はケンペ。 



ケンペは、-語弊があるかもしれぬが-良い指揮者である。それは所蔵しているそれほど多くない彼の数枚の演奏を聴けば分かるのではあるが、当方はそれほど熱狂的までのファンではない。彼の、R.シュトラウスのアルバム/BOXは別格として(個人的には、方向性は全く異なるがメンゲルベルクのコロンビア録音などと同様永久保存のBOXだと思う)、渋くて普通に素晴らしいドイツの指揮者止まりという考えである。 

その考えを改めさせたのが、このブルックナーの第四番と第五番の演奏で、古くから名演とされているものである。即ち、自然であるが、ごく当たり前に自然で、淡く、何も付け加えるモノも、省くモノも何も無し。品があり、且つコクがある。一切の誇張無しに、予定調和的に進行するわけだが、それでいながら、聴いている時にも、聴いた後にも、自分とそこに流れている音楽と同化したようなある種の錯覚を覚える。実に良い匙加減の抹茶を頂いたものか。 

今までは、彼のそういった解釈が、特にベートーヴェンやブラームスを聞いたときに、しっくりこないで、―趣向を別としてー、満足しなかったのは事実だが、彼の振るブルックナーではそれが良い意味に発揮したのであろう、心にピンと来た。無為・無我でありながら、落ち着くところに落ち着き、心を十二分に開放させてくれた。 

 何でも、ケンペは、ほかの指揮者なら多かれ少なかれ、スコアに書き込みをし、時には自分のスコア・パート譜で演奏するのが常なのだが、彼はスコアだけを信じて、何も書かないそうだ。これは、芸術家・指揮者として、ある種の、エキセントリックであり、レアである。 (確証は出来ないが、彼がライプツィヒ放送響に客演した際の、ヴィーゼンヒュッター版によるマーラー五番の演奏も、そういった彼のスタンスの一つかもしれない) 



そういった事柄が脳裏によぎりながら、他の所謂ブルックナー指揮者による演奏は何とまぁ、「余剰物」が多いものか、と思えてきた。巷間、ブルックナーにはインテンポで余分物を比較的削ぐ演奏が多いが、ケンペのそれと比較すると、クナッパーツブッシュ、フルトヴェングラー、チェリビダッケ、ヨッフムはもとより、ヴァント、スクロヴァチェフスキー、インバルあたりでさえも、「煩く」感じられるのかもしれない。 

 あるヴィスキーの名文句ではないが、「何もひかない、何も足さない」、モノの好例であり、日本の古典芸能や懐石に通じるものがあると、思う。