Und morgen wird die Sonne wieder scheinen

9/17/2012

久しぶりの登場は、兎にも角にも余りにも音楽が体に染み渡ってしまったので、一筆書きたくなる欲求が生まれたから。その名はケンペ。 



ケンペは、-語弊があるかもしれぬが-良い指揮者である。それは所蔵しているそれほど多くない彼の数枚の演奏を聴けば分かるのではあるが、当方はそれほど熱狂的までのファンではない。彼の、R.シュトラウスのアルバム/BOXは別格として(個人的には、方向性は全く異なるがメンゲルベルクのコロンビア録音などと同様永久保存のBOXだと思う)、渋くて普通に素晴らしいドイツの指揮者止まりという考えである。 

その考えを改めさせたのが、このブルックナーの第四番と第五番の演奏で、古くから名演とされているものである。即ち、自然であるが、ごく当たり前に自然で、淡く、何も付け加えるモノも、省くモノも何も無し。品があり、且つコクがある。一切の誇張無しに、予定調和的に進行するわけだが、それでいながら、聴いている時にも、聴いた後にも、自分とそこに流れている音楽と同化したようなある種の錯覚を覚える。実に良い匙加減の抹茶を頂いたものか。 

今までは、彼のそういった解釈が、特にベートーヴェンやブラームスを聞いたときに、しっくりこないで、―趣向を別としてー、満足しなかったのは事実だが、彼の振るブルックナーではそれが良い意味に発揮したのであろう、心にピンと来た。無為・無我でありながら、落ち着くところに落ち着き、心を十二分に開放させてくれた。 

 何でも、ケンペは、ほかの指揮者なら多かれ少なかれ、スコアに書き込みをし、時には自分のスコア・パート譜で演奏するのが常なのだが、彼はスコアだけを信じて、何も書かないそうだ。これは、芸術家・指揮者として、ある種の、エキセントリックであり、レアである。 (確証は出来ないが、彼がライプツィヒ放送響に客演した際の、ヴィーゼンヒュッター版によるマーラー五番の演奏も、そういった彼のスタンスの一つかもしれない) 



そういった事柄が脳裏によぎりながら、他の所謂ブルックナー指揮者による演奏は何とまぁ、「余剰物」が多いものか、と思えてきた。巷間、ブルックナーにはインテンポで余分物を比較的削ぐ演奏が多いが、ケンペのそれと比較すると、クナッパーツブッシュ、フルトヴェングラー、チェリビダッケ、ヨッフムはもとより、ヴァント、スクロヴァチェフスキー、インバルあたりでさえも、「煩く」感じられるのかもしれない。 

 あるヴィスキーの名文句ではないが、「何もひかない、何も足さない」、モノの好例であり、日本の古典芸能や懐石に通じるものがあると、思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿